放浪記にあこがれて


image002

映画やドラマでも何度も製作されてきた「林芙美子、放浪記」。実際に見たことはないのだが、本に出会ってから、感銘を受けた。第一次世界大戦終戦後の荒れ果てた東京に、つつましくも男勝りで小粋な姐御の一生を描いた作品。
後の小説家になるまでの様々な経験を生かし、「浮雲」や「うず潮」などの作品を生み出してきた。

九州、鹿児島の生まれで、父親に認知されず苦悩の幼少時代を送る。学生時代には広島、尾道で文学の勉強にはげむ。
 女学校を卒業し東京へ上京、関東大震災にあい、一時尾道に戻るがこの頃から、芙美子を名乗り、文学活動を始め、放浪記の元になる日記をつけ始める。
 再び東京に上京し、詩集など文筆活動にはげむ。
 昭和3年に女人芸術誌が芙美子の詩『黍畑』を掲載、20回の連載で自伝小説『放浪記』を連載した。
 荒れた次代の背景で必死に生き抜く女の視線は、娯楽のない時代に好まれ大ヒットとなった。
 中国やパリへの一人旅や、ロンドンに住み、満州や朝鮮にも行っている、その間にも執筆し続け原稿を送り続けた。
 破天荒な性格で「南京攻略戦には、毎日新聞の特派員として現地に赴いた。1938年の武漢作戦には、内閣情報部の『ペン部隊』の紅一点として従軍し、男性陣を尻目に陥落後の漢口へ一番乗りした(『戦線』、『北岸部隊』)。「共産党にカンパを約した」との嫌疑で、1933年に中野警察署が留置したのは的外れで、芙美子は思想ではない行動の人だった。」とある。

image004

昭和26年の没年までの10年間の住居が現在新宿区中井にある、林芙美子記念館。
 私が最初に興味を持ったきっかけは、「なんじゃもんじゃの木」という木があること知り、その木は春のGWあたりに可憐な花をつける、木犀科の正式名称は「ヒトツバタゴ」という。
 その俗名由来は、水戸黄門が木を見上げ、こう言ったことからついた説がある。

image006

初めて見た木だったので、調べると南部にはあまりなく、東京でも、庭園など人が植えたものに限られているそうで、近場の木を検索すると、林芙美子記念館がヒットしたのだ。
 なんと、すぐ近くでいつも行っているところではないか!
 春なのに、雪が積もったようなその白い小さな花群は、まさしく「なんのもんじゃ?」な美しい木だった。
 プロペラのような花びらが、くるくると回って落ちてくる様子、きっと芙美子もお気に入りだったのではと思いをはせる。
 記念館の案内の方に聞くと、裏手斜面背後の壁にお隣さんの敷地をまたいで生えているそうで、家の外からのほうが綺麗に全体が見えると、連れて行ってもらった。
 一本だけ、どうしてこの木を選んだのだろうか?あちこち旅をしてきた芙美子のこだわりなのか。
 林芙美子記念館には、いつも季節の花々が咲き、ふきのとうや福寿草なども毎年顔を出す。
 うっそうとした竹冠木門があり、一歩立ち入るとここが新宿とは忘れてしまう。

image008

新居を建てるにあたり建築の勉強もしていた芙美子。
 あちこちのこだわりの工夫が見られる。
 設計者や大工を連れて京都の民家を見に行ったり、とても熱心に我が家つくりに取り組む。
 とくに、女にとって大切な台所などは、引き出しや収納など便利に配置され、今のシステムキッチンのよう。
 ボイラーを設置したり、風呂なども小窓から裏庭の木々が見える情緒あるつくり。
 画家である夫の緑敏名義のアトリエ棟とつなぎ合わせ、それぞれが仕事に専念でき、また母との団欒や、書生のための部屋など、志向に合わせたつくりがココで暮らしていたことを感じる。
 芙美子の書斎執筆場所は元納戸で、広くもない場所にこもって作品を仕上げていたのではないだろうか。
 執筆中は部屋に誰も入れず、終わると自分で掃除をしていたそう。
 書斎のぼんやりしたランプと、半障子から見える庭に向かう史机、タバコをくゆらせながら執筆している様子が目に浮かぶ。

男勝りで文才があって、正義感の塊で、仕事の鬼で。そんな芙美子の安らぎであった場所にいると、厳しかった時代の強さ、日本人の強さみたいなものを感じた。

その後、芙美子の少女時代の文学の原点である「尾道」にも行って来た。
 また大きな発見がいくつもあったのだが、また次の機会に。

こんな風に、一人の作家の歩みを確かめる旅もよいものだ。

この記事の執筆者

め組

クルマ大好き。家事大好き。歩くの大好き。行動あるのみ。

これまでに書いた記事