チャレンジひとりドライブ

第六回「日本海を見たい。北原白秋、松尾芭蕉の『荒海』の謎」


荒海、日本海を見たい

これまで日本海というものを見たことが無かった。

関東人の勝手な思い込みなのだが、日本海というのはどうも荒れた海のイメージがある。

実際は10月から春3月頃の時期に北西風の影響で波が高くなるが、年中荒れているわけではない。

にもかかわらず、なぜか日本海というと鈍色(にびいろ)空の下、荒涼とした浜辺に波が砕け散る光景を思い浮かべてしまう。

 

日本海で真っ先に思い浮かぶのが北原白秋の童謡「砂山」だ。

 

海は荒海。
向うは佐渡よ、
すずめ啼け啼け。もう日はくれた。
みんな呼べ呼べ。お星さま出たぞ。

暮れりや、砂山、
汐鳴りばかり、
すずめちりぢり。また風荒れる。
みんなちりぢり。もう誰も見えぬ。

かへろかへろよ、
茱萸(ぐみ)原わけて、
すずめさよなら、さよなら、あした。
海よさよなら、さよなら、あした。

 

「お話・日本の童謡(北原白秋著)」によると北原白秋は1922年(大正11年)6月中旬、新潟を訪れた際、地元の小学生による童謡音楽会に招かれた。そのとき、新潟にちなんだ童謡の依頼を受けた。

快く引き受けた白秋は、その日の夕方、寄居浜に立ち寄った。

今にも雨が降り出しそうな低い雲の下、一面、茱萸(ぐみ)原の砂浜に子供たちが遊んでおり、雀が群れ、海は荒海でむこうに佐渡が見えた。

夕暮れ時でもあり、淋しい風景に見えたようだがそれが童謡「砂山」になった。

この童謡が好きなこともあって、いつかは日本海に行ってみたいと思っていた。寂寥感ただよう日本海を味わうなら冬がいいだろうということで、今回のひとりドライブは日本海。

まず北原白秋が眺めた寄居浜海岸に行ってみよう。

 

「砂山」の舞台、寄居浜へ

関越自動車道を長岡まで走り、北陸自動車道を新潟へ。

タイヤはブリザックに履き替えてある。雪国へのドライブなのだから当然だが、関東地方でもこれからの季節はいつ雪が降るかわからない。気温が氷点下となり、路面が凍結することもあるので、毎年早めにスタッドレスタイヤを装着することにしている。

早く日本海に会いたいが、いつものゆとりドライブを心がけ、サービスエリアも3ヶ所で休憩。

新潟中央インターを降りて寄居浜へ。空は重い雲で覆われている。

いよいよ雪国だ。運転はいつも以上に慎重に。

 

寄居浜 北原白秋はなぜ「荒海」と表現したのか

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寄居浜は新潟中央ICから程近く、今は西海岸公園としてずいぶんと整備されていた。

北原白秋が驚いたという「見渡すかぎり茱萸(ぐみ)の原つぱ」だったと思われる砂丘には、道路が走り、木々が植えられている。

茱萸は海岸でも育つらしく、当時は防砂の目的で植えられていたという。

浜辺には浸食防止のためか、テトラポッドが並び、波しぶきが上がっている。佐渡島は見えない。北西風は頬に冷たく、沖にも白波が立っている。

思い描いたとおりの日本海を見ながらしばらく感慨にふける。

 

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整備されてるとはいえ、「子供たちが鬼ごつこをしたり、窪みで赤い火を焚いてゐた(お話・日本の童謡)」ような砂山は所々残っている。北原白秋が記したように確かに淋しい風景ではある。

 

と、ここでふと考えた。

白秋は、「向うに佐渡島が見え、灰色の雲が低く垂れて」とお話・日本の童謡に書いている。雲が垂れ込めてはいるが、夕暮れにもかかわらず佐渡島が見えていたのだ。

冒頭にも書いたように日本海が荒れるのは、冬期前後であり、「砂山」を着想した6月は、たとえ曇天とはいえ、子供が砂浜で遊んでいるような天候で、海は比較的穏やかだったのではないか。

それをなぜ「荒海」と表現したのだろう。

気になりつつ、砂山の碑が置かれているという護国神社まで散策する。

 

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ここは坂口安吾の碑や芭蕉堂などもあり、文学の散歩道となっている。

芭蕉堂には「海に降る 雨や恋しき うき身宿」の句が刻まれていた。

芭蕉にしては少し艶っぽくもあり、また奥の細道に同行した曽良の記録にもないことから、偽作とも言われているが真相のほどはわからない。

 

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そういえば、芭蕉が新潟から海岸沿いを柏崎に至る途中の出雲崎で詠んだ句に

 

荒海や 佐渡によこたふ 天の川

 

という有名なものがある。これも荒海だ。

新潟から出雲崎まではクルマで1時間ほど。今度は芭蕉が詠んだ日本海を見てみたい。

北原白秋が「荒海」と表現したヒントがあるかもしれない。

 

出雲崎 芭蕉の詠んだ「荒海」とは

江戸時代、出雲崎は佐渡から運ばれた金銀の陸揚げ港であり、北前船の寄航地でもあった。また北国街道の宿場町としての役割もあり大いに栄えた。

 

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海岸からすぐに山が迫る狭い土地に、最盛期には人口が約2万人もいたと言われる出雲崎。

間口が狭く奥行きの長い「妻入り家屋」が軒を連ねる町並みは、今でも変わらず残されている。

どの家も板壁づくりなので、町の方にたずねてみると、これは潮風に対して、一番適した造りなのだそうだ。

 

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出雲崎で天候が回復し、向こうに佐渡を眺める事ができた。海もかなり穏やかになった。

芭蕉に同行した曾良の「曾良旅日記」によると、出雲崎に泊まったのは7月4日(新暦8月)で、その夜は雨が強く降ったとある。

この句は出雲崎でつくられたらしいがその夜の天候から考えて、写実ではなく、芭蕉の心象ではないかといわれている。

夏のこの時期、台風でもない限り、いくら雨でも怒涛のごとき荒海ではなかっただろう。

思うに、芭蕉は、順徳上皇や日蓮、日野資朝、世阿弥など佐渡に流された人々と本土を隔てる海を象徴的に「荒海」と詠んだのではないだろうか。

つまり波の高い荒れた海という物理的な状態ではなく、佐渡島と本土との間に横たわっている越えがたい海を「荒海」と表現したというのはどうだろう。

 

北原白秋もこの芭蕉の句になんらかの影響を受けていたのではないかと思う。

お話・日本の童謡に「その前は荒海で、向うに佐渡が島が見え」と書いているのは、自分の住む「小田原あたりとは違う北国の濱」の向うに広がる海を表現するのに、芭蕉の句を引用したのではないかということである。

だから隔てる象徴として「荒海」と詠んだ芭蕉の時と同じく、北原白秋が見た海も荒れてはいなかった。というのがこの旅で考え付いたことである。

芭蕉や白秋が句や詩に込めた同じ海を同じ場所から眺めながらこんなことを考えるのも楽しい。

 

芭蕉や白秋も海の幸を味わったのだろうか

日本海の旅は美味しい海の幸との出会いでもあった。

ひとつは護国神社境内で芭蕉堂の近くにある「ミューズ(mju:z)」というシーフードレストラン。上品で落ち着いた雰囲気の店内で魚介類をふんだんに使ったこだわりのあるメニューが楽しめる。

 

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さっそく、イカと大根のゆず胡椒パスタをいただいた。優しいゆずの香りと、ぷりぷりのヤリイカ。

素材の味を生かしながら繊細に味付けしたシェフの感性に感激。今回はランチだったが、ぜひディナーも味わいたい。

 

もうひとつは出雲崎の手前、北陸街道の宿場でもあった寺泊という港町。旅人達は、飯の美味さにここを愛してきたのではないか。

何軒も並んでいる鮮魚店は二階に食堂を構えており、店先に呼び込みも居て活気に溢れている。

 

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寺泊中央水産の二階にある「まるなか食堂」は豪快に海の幸が味わえる。カニもウニ・イクラ丼も絶品だが、一緒に付いてくる「番屋汁」がいい。魚介類のアラに、白菜やネギなどの野菜がたっぷりの味噌汁は昔から漁師に親しまれてきた味だそうだ。

 

「荒海」の謎だけで二倍楽しめた日本海

「荒海」日本海を見たくて、来てみたら芭蕉や北原白秋の「荒海」の謎に挑戦する旅となった。解明できたとは思わないが、そんなことを考えながら旅するのも楽しいものだ。

走行距離は約840㎞。それこそ太平洋では味わえない海の風景や豊かな幸を堪能できた。

ブリザックを装着するようになってから、冬の行動範囲が広がってきたような気がする。今回は本格的な降雪に会わず、雨に少し雪が混ざる程度だったが、足回りへの安心感もあり、結局出雲崎まで足を延ばす旅になった。

 

余談だが、曾良旅日記によれば、翌日は柏崎に行き、そこで天や(屋)弥惣兵衛に(象潟で会った宮部)弥三郎の紹介状を見せ、宿を請うが、弥惣兵衛の態度が悪かったのか、気分を害して天屋宅を出てしまう。天屋の者があとを追ったが芭蕉はよほど機嫌を損ねたと見えてそのまま鉢崎(米山町)まで歩いて宿を取ったという。

弥惣兵衛が宿を貸すことになぜ難色を示したかは諸説あるが、むっとした芭蕉というのは、どんな顔をしていたのだろう。

 

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文 岡よしみ

取材協力

シーフードダイニング ミューズ(mju:z) 電話025-223-3889

寺泊中央水産 食堂まるなか 電話0258-75-3266